浅田宗伯
浅田宗伯(漢方医)
浅田宗伯は文化12年(1815年)信州筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市)に生まれた。
宗伯は日本の漢方医であり、本名は浅田惟常、号は栗園と称した。
祖父東斎、父済庵は医家として業を成した。
宗伯は15歳の頃より自ら志を立て、京都、江戸において漢方医学と共に頼山陽らから儒学・歴史学を学んだ。
はじめ江戸の諸名医の門を叩いたが相手にされず、幕医・本康宗円の理解を得て、多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛ら医学館考証派の諸名家に紹介されたという。
宗伯の名乗りは本康宗円より一字を承けたものである。
安政2年(1855年)幕府のお目見得医師となり、安政5年(1858年)将軍家茂に謁して徴士となり、慶応2年(1866年)13代将軍家定の夫人天璋院はじめ大奥の侍医となり、法眼に叙せられた。
医師として宗伯は、フランス公使レオン・ロッシュや嘉仁親王(後の大正天皇)の難症を治し救った事で知られている。
浅田飴より販売されている「浅田飴」のルーツとなる処方を考案した人物である。
尚、創業者である堀内伊太郎の父は、宗伯の書生であった。
漢方侍医としては最後の人となった宗伯は明治27年3月(1894年)80歳で生涯を終えた。
宗伯の著述の数は八十種類二百余巻になるといわれる。
「傷寒論識」「勿誤方函口訣」「橘窓書影」「古方薬議」「脈法私言」「雑病論識」「皇国名医伝」「先哲医話」などを著し、門人も多くいたそうである。
宗伯は文章、詩、書、いずれも衆に秀れ、単なる医師ではなく国医であり、史学者であり、文人であり、思想家でもあった。
略歴
文化12年(1815年) | 代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。 |
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慶応2年(1866年) | 徳川将軍家の典医となる。 |
明治8年(1875年) | 宮内省侍医を拝命。 |
明治27年(1894年) | 漢方儒医として80年の生涯を終える。 |