江戸~明治期 浅田飴の誕生と斬新な宣伝
文化12年(1815) 浅田宗伯(惟常)生誕 |
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天保3年(1832) 宗伯、京都に上り、中西深斎の塾で傷寒論を学ぶ |
天保7年(1836) 堀内伊三郎生誕 宗伯、江戸で開業 |
安政2年(1855) 宗伯、幕府の御目見得医師となる |
慶応元年(1865) 宗伯、フランス公使レオン・ロッシュの難病を治す |
慶応2年(1866) 宗伯、徳川将軍家の御典医となる |
明治元年(1868) 堀内伊太郎生誕 宗伯、徳川慶喜と共に駿府に赴く |
明治8年(1875) 宗伯、宮内省侍医を拝命 |
明治12年(1879) 明宮嘉仁(のちの大正天皇)生誕 宗伯、危篤の状態に陥った際に治療する |
明治19年(1886) 伊三郎、宗伯邸を牽く人力車夫として仕え、清治丸、法王湯、御薬さらし水飴の処方を頂く |
明治20年(1887) 「御薬さらし水飴」創製発売 伊太郎、神田区多町にて父母の業を継ぎ初代店主となる |
明治22年(1889) 御薬さらし水飴を「浅田飴」に改称 |
明治25年(1892) 引札による宣伝を開始 |
明治30年(1897) 神田区鍛冶町に店舗及び工場を移転 |
浅田宗伯 |
薬用水飴の処方を伊三郎に伝授した浅田宗伯自ら考案した薬用水飴の処方を、当時書生だった堀内伊三郎に伝授したのが浅田宗伯。 |
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堀内伊三郎 |
御薬さらし水飴を創製発売堀内伊三郎は信濃国(伊那郡)の出身。同郷のよしみから宗伯の書生となった伊三郎は、その真面目な働きぶりが認められ、宗伯から薬用水飴の処方を譲り受けました。 |
初代堀内伊太郎 |
「浅田飴」への改称事業の存亡を託されたのは長男の伊太郎でした。彼は16歳で上京し勉学に励んでいましたが、両親のためにも「御薬さらし水飴」を世に広めようと一念発起しました。 |
引札 |
引札による宣伝「引札」とは新聞の前身である瓦版のような、今で言う「チラシ」や「ポスター」のことで、大衆広告として「引札」を利用したのも浅田飴が第一号でした。 当時、商品名だけを書いた引札はありましたが、伊太郎はその商品なりを記憶に留めてもらうためにデザインに役者絵や芝居絵などの綺麗なもの、縁起のよいものを用い、その頃としては珍しいカラフルな引札を作りました。 |